• 職業能力開発大学校  丸山雅滋

今では良きにせよ悪きにせよ一時期ほど海外協力について新聞・雑誌などで取り上げられることが少なくなった日本の海外協力。逆説的に言えば地道な活動である本来の扱われ方ではないでしょうか!

1992年から2年半インドネシアで職業訓練分野での電子の専門家としてこの仕事に携わり,今まで経験できなかった多くのことを知ることができ,長い人生,弥次さん喜多さんではないが「ああでもない,こうでもない」とやってみるのも今となっては楽しい思い出です。

1.インドネシアでの生活

今から考えれば若さのいたりか,2年半という時間をあんなに簡単に決めてしまった自分に感心してしまう。「専門家としてインドネシアに行かないか」とのお誘いにろくに情報収集をしないで,旅行雑誌で調べる程度で決めてしまった大胆さ。今の自分には失った大胆さに感心してしまう。バリ島がどこにあるかご存じですか? そうです,インドネシアのジャワ島の東に位置する小さな島がバリ島なのです。つい先日にもコレラで一躍有名になりましたが,はっきり言って日本から来た旅行客の安全意識の低さがあの事件を起こしたと考えるべきです。2年間住んだジャカルタ市は94年度のAPEC開催都市。どこかで聞いたことがある都市だと思います。

インドネシアの首都ジャカルタは人口900万人とも1000万人ともいわれ,高層ビルが立ち並び,車の渋滞が漫性化する近代的な町で,欧米からの企業よりも日系企業の進出が進む政治・経済の中心都市です。最低賃金が日給200円程度の国で,日本の給与と同程度を現地でもらうことができる専門家にとっては大金持ちになった気分を満喫できる別天地です。そのうえ,テロなどの極悪犯罪がなく,こそ泥や抱きつきスリがいる程度の安全な?町です。ただし,安心してはいけないのはスリや泥棒に会う人は何回もお会いしてしまうことです。インドネシアに着いた頃は必要以上に注意したためか,事件に遭遇することがありませんでしたが,帰国する時期には,話の種にスリにお会いしたいぐらいに思いました。泥棒にも選ぶ権利はあるはず。たぶん,金を持っていないか人相が悪いかどちらかに見えたんでしょう。(つまり,泥棒によく会う人は,育ちがよく金持ちに見えると喜ぶべきかもしれません)。

2.技術協力の概要

話が少し硬くなりますが,仕事の概要を書いてみます。

2年間半通った職場のあるブカシはジャカルタから東に30キロに位置し,ジャカルタのベッドタウンと新興工業地帯として近年成長著しい活力のある町です。そのブカシにはインドネシアでの職業訓練指導員を養成するCEVEST(シーベスト)が日本の無償援助で建てられました。それに合わせるように,85年から5年間の期間で指導員養成コース(訓練期間2年)を運営するため,CEVESTで指導員養成に従事する先生に対し技術移転が行われました。

その後,新たに3年間の指導員養成コース(工業電子科と情報処理科)の新設と,企業や学校を対象とした能力開発セミナーを運営するための組織作りとコース開発に必要な技術を機械・電気・電子科のの3科にわたって技術移転する目的で92年6月1日から5年の期間で新たにプロジェクトがスタートしました。

私が携わったのは,能力開発セミナーを運営する部門で専門として電子科を中心に技術移転を進めてきました。今でこそ,日本の能力開発セミナーの運営方法が整理されシステム化されていますが,92年は日本でも各施設ごとに独白の運営が行われていたため,赴任当初は能力開発セミナー担当の専門家3人で技術移転を始める前に各専門家の考え方をまとめるために結構時間がかかりました。

専門家として技術移転を進めるうえで,一番つらかったことは,能力開発セミナーを売り込むための企業訪問です。というのは,インドネシアの状況も知らず,言葉もわからず,カウンターパート(技術移転を行う対象者,もちろんインドネシア人)とペアで会社に訪問し,企業の担当者を前にしてニコニコしながらうなずくだけ。言葉がわからないところに緊張していることもあって,座っていることの苦痛といったら我慢ができません。訓練の売り込みを終えて,会社から出たときの壮快感は真夏の炎天下から逃れて冷たいビールを1杯する気持ちと同じです。カウンターパートにも私の顔の表情からつらいことがわかっているにもかかわらず,会社に一緒に行くよう必ずお誘いがかかります。カウンターパートが言うには,企業から見れば労働省の公務員(CEVESTは労働省の施設)がやって来ることは,会社内の問題点を指摘し,小遣いを稼ぎに来ることが多いため警戒している。つまり,公務員の中には賄賂をほしがる一部の輩がいるため,企業の人にとっては恐れられている状況なのです。しかし,日本人が一緒にいることで企業の担当者も安心して中に入れてくれ,能力開発担当者にも会うことができる。メイドイン・ジャパンの工業製品はアジアでも信頼性が高いのですが,日本人が信頼されていることには驚いてしまいました。私の聞いた噂では,日本人と一緒に行くことで,昼食をおごってくれるため,好んで企業訪問に誘う要因でもあるらしいです。

このようにして,訓練を企業に売り込みながら,実習場では訓練を企業が求める内容に改良する作業を同時に進めました。まず,企業ニーズ調査を実施して,どのような訓練期間や時期など訓練の大枠を調査し,今までCEVESTで行われた学科中心の養成訓練を細切れとするのではなく,短期間に実習を中心とした訓練を集中して行うよう各専門家が地道に改良を加え取り組みました。

2年間半,カウンターパートとともに仕事をしながらいろいろな体験ができ,海外でしか経験できないことを多く知ることができました。その中で,強く印象に残っていることは次のようなことです。

赴任した当初は,企業向けの訓練は,実技中心の短期間の訓練を実施するようにカンターパートに口を酸っぱくして説明しても,ニコニコしながら聞いているのですが,訓練内容の組み替えに取り組もうとしません。つまり,「日本人がいくらいいものだと思っても,押し売りでは反発をかうだけでその真意を理解しようとはしてくれない」。時間が過ぎるとともに,彼らと公私でのつき合いが出てくると,彼らがなにを考え求めているのかがぼんやり見えてきます。また,彼らにも専門家の考え方が伝わっていく。その積み重ねが大切な過程でした(国際協力は一日ではならず)。最初の頃は仕事以外の会話がなくぎくしゃくする雰囲気でしたが,慣れてくれば互いにジョークを言える関係まで発展してくる。そこで,彼らが求めていることを仕事に組み込みながら,プロジェクトの目的を達成するための取り組みを段階的に進めました。結構いますよね,融通が利かないカチカチの頭で,管理的に物事を考える人。こんな人はカウンターパートには理解されず,むだな時間を海外で過ごしてしまう不幸な人になってしまいます(はたで見ていると,かわいそうでたまりません)。専門家の素養としては,専門分野の技術を持っていることは当然ですが,それ以上に,話好きで人の中に入っていくことが好きな人。専門家としての最初の仕事であり大切な仕事ではないでしょうか!

3.海外協力は気持ちから

先に書いたように,海外に出る日本人は大なり小なり現地ではハンディキャップを持ちながら仕事をしています。小生も人生経験が少ないことは致し方ないとしても,言葉の問題は2年間半を通して私に頭の中に重くのしかかった問題でした。

インドネシアでは一般的にはインドネシア語が使われています。しかし,日本の学校では英語しか教育を受けていないこともあり,どうしても英語を使いたくなってしまいます。言葉を覚えるのに英語とインドネシア語どちらにしようかと悩んでいるとき,インドネシアでも英語は一部の人間では通用することもあリ,英語を覚えてバイリンガルになろうと密かに考える心と,一般の人が使っているインドネシア語を流暢に話してみんなを驚かしてやろうという心が,自分の能力を考えないで心の中に居すわってしまい,大失敗をやってしまいました。まさしく「2兎を追うものは1兎をも得ず」。最終的にはインドネシア語に集中することとして,ある程度までは話せるようになりました。今思えば,現地の言葉を話すようにしたほうが結果的によかったです。考えてみてください。日本で外人と会話をするときには,日本語を話す外人のほうが親しみやすいですよね。わかってしまえば簡単なことです。

円高や不況の影響で,大企業のみではなく中小企業が積極的に(大企業の下請け会社が必要にせまられて)海外進出を進めています。当然,日本人が海外で勤務するケースも増えています。民間企業の多くは,単身・家族によって海外勤務期間が決まっているらしいですが,話を聞いてみると後任問題などで強制的に期間が延びるケースが多いらしいです。それに引き替え,JICA(国際協力事業団の英略)の専門家として海外に出る場合は,契約が2年間とはっきり決まっており,業務の進捗内容などに応じて延長があります。小生も半年間を延長して,計2年半をインドネシアで過ごしました。特に延長の半年間はとても楽しく,仕事の面・遊びの面で充実することができました。言葉の問題が少なかったこともありますが,この時期は帰国の時期が具体的になっているため日本に帰国して後悔しないように,自分なりに計画的にこなしました。仕事面で若干やりきれないものがあり,後任の専門家に迷惑をかけてしまいました。この場を借りて謝らせていただきます。

今振り返ってみれば,海外生活をエンジョイできるかつまらない生活になるのかはその国の政情や経済状況が影響するのは当然ですが,仕事面と生活面で目標を持つことが意外と大きいです。被害妄想的に「いやだ・早く帰りたい」と思う人がいれば,当然言葉や態度に出るし,その人ばかりではなく周りの人を巻き込んで暗くしてしまいます。

つまり,専門家としては専門分野に精通していることはいうまでもないのですが,私の経験から言えば人間性が海外生活を楽しめるための大きな比重を占めます。

そこで,我流の海外生活の心得は,①どん欲な好奇心,②細心の注意,③前向きに楽しく考えるプラス思考,となるようです。

4.がんばる

テレビを見ていると,リポータがスポーツ選手に「がんばってください」と声をかけることがよくありますが,私の記憶違いでなければ,「がんばる」という言葉の由来は「我をはる」からきているそうです。つまり「My Way」に生きていく。それならば,今の私も「がんばっています」。なぜ,そこまで言い切れるのか…?

海外では言葉も違うし慣習も違う。そのような環境下では相手に合わせる部分は当然必要です。インドネシアでの「べからず」には,①左手で物を食べたり,握手をしてはいけない(トイレで左手を使うため),②頭を触ってはいけない(宗教の教義だと思う),③人前で怒ったり叱ったりしない(プライドを傷つける),などその他いろいろあります。また,専門家としての「べからず」には,①政治的・宗教的な話に深入りしてはいけない,②日本の慣習を押しつけてはいけない,③金儲けをしてはいけない,など派遣前にJICAの研修でみっちり勉強を受け,ぴかぴかの専門家で派遣地に出発したわけです。そこでは,今までの生活の判断基準がいっぺんになくなってしまい,周りの人たちから何を言われても典型的な日本人にかたまってしまい,ニコニコしながら「イエスマン」で答えることが数ヵ月続きました。「べからず」が頭の真ん中にしっかり居座り(研修効果が利いている),こちこちの生活が結構長く続きました。しかし,人間はうまくできているもので,任地での経験から判断の基準が少しずつ形成されていき,それが自信になり,知らない間に確信まで到達してしまい,「がんばる」人間ができあがってしまったわけです。その裏には,海外生活では安全意識には特に気を使うため,アメリカの開拓期みたいに自分の身を守り家族を守るため,要所要所で判断しなければならないことが多いからです。例えば,インドネシアでは移動には自動車を使いますが,平均的な日本人では運転手を雇います。また,家庭では炊事専門のメイドと洗濯・掃除担当の2名のメイドを雇います。最初の2年間は一軒家に住んでいたため,計3名従業員を抱える社長として君臨しました。というものの,大なり小なり次から次と問題(憤れてくればイベントともいえるが)を起こしてくれる。これを判断して社長として生き残るためにがんばらなければいけないわけです。

とかく日本に住んで仕事をすると慣習や前例をふまえて判断することは少なくありません。確かに大切なことでもありますが,よりよい方法は別に必ずあるはずです。ゆっくり立ち止まって考えることも必要ではないでしょうか。海外技術専門家は,海外生活で自分なりに考え,信念を持って行動する経験をしています。ですから,帰国し職場に戻っても,またがんばり続けるわけです。

5.おわりに

海外協力といっても,この仕事に携わったことがある人はまだまだ多いとはいえません。多くの人はテレビや雑誌・友人などから間接的にしか接していないのではないでしょうか。フィルターを通して得た情報は主観が入る部分が多く,正確に伝わるとは限りません。「百聞は一見にしかず」。実体験して,その面白味がわかってきます。

幸運にも専門家として長期で海外に住む経験をすることができたのも,ポリテクセンター京都の麻原先生・塚本先生をはじめスタッフの協力があってのことと深く感謝いたします。

現在,職業能力開発大学校の国際協力部で海外の職業訓練指導員の研修業務に携わっています。当部では,世界各国から毎年約50名の研修員が技術を習得するために来ています。海外での技術協力から日本での技術協力と場所は違いますが,その精神は変わりません。当大学校での30年を超える海外協力の経験が蓄積されていますので,興味がある方はぜひとも当部にお立ち寄りください。

ページのトップに戻る