• ポリテクカレッジ北九州(北九州職業能力開発短期大学校)西村 一仁

ここ十年余り,ダイヤモンドが生活の種であったので,ダイヤモンドの話をつれづれと書き綴ってみます。ダイヤモンドといってもただダイヤモンド工具メーカーでダイヤモンド研究に携わっていただけで,一般に関心のある宝飾の類は専門外。といったことで,以下の話は,いわゆる「門前小僧の習わぬお経」よろしきものとご了承ください。

ダイヤモンドの歴史

人類がいつダイヤモンドを発見し,どのように利用したのかは詳らかではないのですが,今から5000年ほど前,インドのゴルコンダで発見され,18世紀に至るまでインドが唯一の産出国でした。そして,古代インドや中世ヨーロッパの王侯,貴族の権力や富の象徴として珍重されてきました。18世紀になってブラジルでダイヤモンドの鉱床が見つかり,次いで,19世紀の終わりに南アフリカで大鉱床が発見されるようになって,ダイヤモンドは欧米で急速に宝飾,装飾品として大衆化し,戦後,日本でも愛のしるしとして,いわゆるブライダルリングの習慣ができました。

ダイヤモンドが炭素の結晶であることは,現在,よく知られていますが,この炭素のかけらが,古代からいろいろと神話や伝説に彩られ,また至高の財宝として珍重されるるのは,ダイヤモンドがあらゆる物質の中で最も硬く,希少性,特に良質のものはきわめて少なく入手が難しいこと,そして類いまれなる光沢を発すること,などによるためです。

ダイヤモンドの言葉が出てくるのは聖書が最初とされています。旧約聖書の出エジプト記28章にヘブライの高僧の胸当てを飾った12種の宝石の1つにダイヤモンドがあります。また,旧約聖書エレミヤ書17章には「ユダの罪は…金剛石の尖をもてしるされ・・」とあり,工具としてのダイヤモンドの使用について記されています。

ギリシャでは古くからアダマス(adamas)という言葉が征服不可能とか無敵という概念で使われていて,こわすことができないものというので鉄を意味し,西暦1世紀頃にはダイヤモンドの意味で使われるようになりました。ダイヤモンドの語源はアダマスに由来するというのが通説になっています。

ダイヤモンドの比類のない硬さのため,インドでは,昔から不幸や災害を追い払うお守り(護符)とされていました。西洋では,無敵(アダマス)という概念から,権力のシンボルとして高く評価され,戦争をしていた王侯貴族にふさわしい装飾品として,男らしさと勇気の象徴として身につけられていました。この時代,ダイヤモンドは男だけの特権でありました。ちなみに,女性がダイヤモンドをつけるようになったのは,15世紀になってからです。

その頃にダイヤモンドを研磨,成形した,現在のブリリアンカットが開発されました。これによりダイヤモンドに初めて輝きが生まれ,女性の美をも増すようになってきました。硬かっただけのものが,美しさを兼ね備えることにより,女性に好まれるようになりました。このことがわれわれが格言として教わった「金剛石も磨かずば,珠も光は添はざらむ。人も学びて後にこそ、誠の徳は…」,という格言のもとになりました。

インドで産出したダイヤモンドは,紅海沿岸から地中海を経て,また,ペルシャ,トルコの陸路を経てローマへと輸送されました。このキャラバン輸送はペルシャ人とアラブ人が支配していて,道すがら,彼らは諸国の王に宝石類を売ったのですが,ダイヤモンドはきわめて限られた王にしか知られなかったといわれています。

ローマ人には,魔除けとして珍重されていましたが,その他に彫刻具,特に宝石の彫刻にダイヤモンドが工具として使われていました。このことは,旧約聖書エレミヤ書17章,中国の紀元前から伝わる「列先生の書」という本にも工具について述べています。この工具は,ダイヤモンドの刃をつけた「たがね」で,その工具の出所をローマとしています。

紀元前270年に書かれた古書にも,ダイヤモンドは真珠に似た石といい,また,その卓越した硬さにも触れ,さらに「外人(非中国人)は,ダイヤモンドを指輪にして超自然力から身を守ったり,毒に対する免疫をつけたりするために身につけている」と書いています。中国人にとっては,理解し難い,不思議な風習であったのでしょう。

古代,ローマ人がダイヤモンドに興味を持ったのは,その硬さや希少性もさることながら,それ以上に魔法的な特性のためと推測されます。このためかダイヤモンドにまつわる神話,伝説,迷信の類いが多いのです。古代ギリシャ人は,ダイヤモンドは大地に落ちた星のかけらだと信じていました。また,ダイヤモンドは人類未踏の深い谷にあり猛獣,大蛇が谷を埋め尽くしている。その谷間の宝石を取るのに,肉片を谷間に投げ込む。すると空中の鷹が,谷底に降下して肉片を掴み巣に帰る。肉には,宝石が付着しているので,人間はその巣を探る…。ダイヤモンドを採取するという話は「ダイヤモンドの谷間」としてよく知られています。

また,ダイヤモンドは狂人を正気に戻し,作物を天災から,家庭を災難から守ると信じられていました。「ダイヤモンドを身につけておれば,蛇,火事,毒,病気,盗財,悪霊におびやかされるようなことがあっても,その危険は遠のくであろう」と記されています。聖ヒルデカルデ(1098~1179)は,ダイヤモンドの治療効果を上げるためには,一方の手でダイヤモンドをしっかり掴み,他方の手で十字を切るとよい。また,その他患部にダイヤモンドを押し当てるといったことも記されています。

○継承権の粉

ダイヤモンドの粉を飲むと病気に効くと考えられていましたが,ルネサンス時代には,反対に有毒と考えられるようになりました。そして,ダイヤモンドの粉を使って,自分に邪魔になる連中を消そうとした者がいました。フランス王アンリ2世の后のカトリーヌ・メジナ(1519-89)がその人で,王位継承に関して保身のために使ったので,ダイヤモンドの粉末は「継承権の粉」と呼ばれました。

○ダイヤモンドと牡ヤギの血

ローマの百科事典であるプリニウスは,「自然史」(Historica naturals)の中に,「ダイヤモンド,この珍しい富の喜び,いかなる形の暴力にも負けず屈しないものも,牡ヤギの血の作用で破壊することができる」,また,「無敵の力(アマダス)は牡ヤギの血でこわされるが,新鮮で温かい血にダイヤモンドを浸した上では,叩かれても砕けない」と書いています。不屈の心(ダイヤモンド)でも肉慾(ヤギ)に負けることがある,との意味だそうなのですが,比類ないダイヤモンドの硬さをもとにした寓話です。

15世紀の後半になると,権力の象徴であるダイヤモンドは,王侯の間で一般化し,宝石の中で最高位にランクされるようになりました。そして彼らの間では,ダイヤモンドの神秘的な考えは消え始めました。しかし,別の層では,中世の占星術師とからんで,ダイヤモンドの魔術性はその後も生きていました。

16世紀になるとダイヤモンドは普通の商品となりました。バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が希望峰経由のインドへの海上直行ルートを開発(1498)してから,ポルトガルのリスボンがダイヤモンドの最重要輸入港となり,リスボンと往来の盛んなベルギーのアントワープがダイヤモンドの加工(カット)で栄えるようになりました。その後,オランダのアムステルダムもダイヤモンド産業(カットと石の取引き)の一角を占めるようになりました。

18世紀になって,ダイヤモンドの世界に大転換期がやってきました。インドのダイヤモンド産出は枯渇し始め,タイミングよくブラジルでダイヤモンドの鉱床が発見されました(1725)。そして,大量産出のために,ダイヤモンドの価格が暴落し,種々の混乱を招来したりしました。しかし,裕福な中産階級の出現によって,カットしたダイヤモンドの需要は増大し,アントワープやアムステルダムのダイヤモンドカット工場は繁栄をきわめるようになりました。

この繁栄も長続きしませんでした。19世紀後半には,ブラジルのダイヤモンドの供給が減少し,そのためダイヤモンドカット工場が規模を縮小した矢先に,普仏戦争(1870~71)によって破滅的打撃を受けました。

このような危機的状況を迎えたちょうどその時期に,今度は,南アフリカでダイヤモンドの鉱床が発見(1866)され,新たなダイヤモンド近代史の幕開けとなりました。

インドの有名なダイヤモンド

歴史上に有名なダイヤモンドはたくさんありますが,ここではインドのものについて述べます。有名の条件としては,並外れた大きさとその石の血統書というか,伝承,伝説が必要でありましょう。

有史以来最大のダイヤモンド原石は,1905年に南アフリカで発見された「カリナン」で3106カラットもありました。後に9つの大きな石と96の小さな石にカットされました。最大の石「カリナン1世」は530.2カラットで世界最大のダイヤモンドジュエリーですが,現在は英国王室の王笏にはめ込まれ,常設展示品となっています。

現在,世界にある100カラット以上のダイヤモンドは50数個といわれています。以下に,インド産の名石を紹介してみます。

○コイヌール(Koh-NOOR)(光の山)

この石の起源は伝説のベールに包まれています。1304年にマルク王の所有物として歴史上初めて記録されています。紀元前にビサプール鉱山(またゴタバリ河ともいわれる)で発見され,重さは600カラット以上あったといわれていますが,定かではありません。16世紀にムガール帝国を建てたバーブルは,スルタン領主を殺し,未亡人からコイヌールを含む莫大な財宝を取りあげました。その後,約2世紀の間,ムガール王の貴重な宝物となっていました。1739年,ペルシャ王ナデール・シャーがデリーの町を征服したとき,ムガールのムハメッド・シャーを退位に追い込み,巧妙な手口でこの宝石を奪い取ったのでした。

その方法というのは,ムハメッド・シャーに疎んぜられていた第一夫人から,シャーがコイヌールを常にターバンの中に隠し持っていることを教えられたナデール王が,親愛のしるしとしてターバンを交換し合いました。それは,インドの習慣として拒絶できないものでありました。こうして,ナデールはまんまと石を手に入れました。燦然と輝く石を手にして感激のあまり「コイヌール=光の山」(Mountain of light)と叫んだ,というのがこの石の名前のいわれとなりました。

ペルシャの手に入ったこの石は,後に,アフガン王のアームド・シャーに渡り,シャーの孫ザーマンは,その石をほしがった兄のために盲目にされました。そして,ザーマンは,その石を壁のしっくいに隠したのでした。後年,発見された後,“パンジャブの虎”と呼ばれたランジート・シンの手に渡り,七宝金の腕環にはめ込まれました。

1849年,パンジャブ州が英領に併合されたとき,東インド会社が賠償の一部として没収し,翌年,これをビクトリア女王に献上しました。初めてインドを離れたコイヌールは,このとき186カラットで70万ポンドの値打ちといわれ,ロンドンの水晶宮で一般に公開されました。ところが,インド式のカットは人々の期待を裏切ったので,女王はアムステルダムの腕きき職人に再研磨させました。その結果,現在の108.93カラットにサイズダウンしました。

コイヌールには,女性が所有すれば幸せがもたらされるが,男性が持つと不幸を招くという,大昔からの伝説があるので,女王はこれを信じて,このダイヤモンドを男性の国王が相続するときには,その妻のみが着用することを遺言に記しました。1937年,エリザベス王妃の王冠につけられ,以来皇太后のみが重要な儀式に着用してきました。

現在,ロンドン塔に保存されているこのコイヌールは世界で最も有名であり,また最古の歴史をもつダイヤモンドであります。

○リージェント(Reagent)

世界で最も美しいダイヤモンドの1つといわれ,フランスの王冠を飾るリージェントは,伝説と波欄に満ちた歴史を経てきました。その出生由来は謎に包まれていますが,一説によると1701年,インドのパテール鉱山で,1人の奴隷が410カラットもあるダイヤモンドを発見,秘かに持ち出したというものです。彼は海岸に停泊中の英国船で脱出をはかったのですが,船長にだまされてダイヤモンドを取られたうえに,殺され海へ投げ込まれてしまいました。

船長は,このダイヤモンドを英国のマドラス総督トーマス・ピットに1000ポンドで売り渡し,遊興のあげくのはて,殺人を犯し,自らも自殺したといわれています。また,一説には,船長が,インド商人に1000ポンドで売り,ピットはその商人から2万ポンドで買い取ったといわれています。

1702年,トーマス・ピットはロンドンの宝石職人にカットを依頼しました。そして2年と5000ポンドをかけて,140.5カラットの見事なクッションカットの宝石と,いくつかの小さな宝石に仕上げました。大きな石は,1717年フランスの摂政オルレアン公に13万5000ポンドで譲られ,以来「リージェント(摂政)」と呼ばれるようになりました。

1722年,ルイ15世の戴冠の折,史上最高に美しかったといわれる王冠の正面に,リージェントが燦然と光を放っています。その後,マリー・アントワネット王妃は,これを大きな黒ビロードの帽子につけて愛用しました。

1787年に始まったフランス革命では王室の宝石類が民衆の標的となり,1792年リージェントは他の宝石とともに略奪されましたが,1年後にパリのある家の屋根裏のしかも梁の穴の中で見つかりました。

後の1804年,ナポレオンの戴冠式では皇帝の剣の柄にはめ込まれていましたが,エルベ島に流されたときに,妻のマリー・ルイズの手によってオーストリアに渡りましたが,彼女の父のオーストリア皇帝の強い勧めによって,リージェントはフランス王室に戻され,その後,王冠や髪飾りなどに飾られました。

1887年,フランス共和国が成立したとき王室の多くの宝石が競売にかけられましたが,リージェントは他のわずかな宝石とともに除外され,現在,パリのルーブル博物館に展示されています。

○ホープ(Hope)

独特のバイオレットブルーに輝くこの石は,所有者が次から次へと悲惨な運命にみまわれる不幸な伝説にまとわれています。

1668年,インドに渡航したジャン・バーティスト・ダベルニエがインドから持ち帰り,ルイ14世に譲渡しました。原石の大きさは112.4カラットといわれています。ルイ14世はこれを67.5カラットのハート形に研磨してモンテバン夫人に送り,それは「宝冠のブルーダイヤモンド」と名づけられました。

その後,フランス革命後,1792年にリージェントなどとともに王室から盗まれました。1830年に出所不明の見事な44.5カラットのダイヤモンドがロンドンで競売に出され,銀行家のヘンリー・フィリップ・ホープが1万8000ポンドでこれを買い上げました。ホープという名は彼の名前から取ったものです。

この間に,ゴヤが1799年に描いたスペインのマリア・ルイザ王妃の肖像画にブルー色のダイヤモンドが描かれています。1855年のパリの万博にコイヌールとともに展示され反響を呼びました。1908年にホープから離れたホープは,その後トルコのハミド2世から宝石商ピエール・カルティエに渡り,後にアメリカの新聞王エドワード・マックリーンが15万4000ドルで買い取り妻に贈りました。彼女の死後,1949年にニューヨークの宝石商ハリー・ウィストンが18万ドルで買い取り,これをワシントンのスミソニアン博物館に寄贈しました。

以上が,ホープ遍歴のあらましですが,冒頭に述べたように,この石は数々の悲劇,呪いの伝説に彩られています。そのいくつかを紹介してみましょう。

ダベルニエはインドの神の像から,この石をむしりとって盗みました。ルイ14世に売り払ってから,再びインドに渡ったのですが,虎に食べられてしまいました。ルイ14世もこの石を一度身につけたがすぐに死んだというのです。しかしこれらは全く史実とは違っています。ダベルニエはモスコー風邪で亡くなったし,ルイ14世もブルーダイヤモンドを入手してから40数年も生きていました。

ホープ家の手を離れてからは,次々と不幸をもたらしたと伝えられています。まず,最初の持主は自殺,次の主のロシア王子は婚約者の女優に贈ったところ,彼女は舞台で事故死,次の持主は家族もろとも船が沈んで死亡,ハミド王は失脚,次の持主も絞殺,マクリーン家も主人は気違いになり,息子,娘も事故死をとげました。そして,ホープがスミソニアン博物館について,魔の石の呪いは終わった,とまことしやかに伝えられています。これらは,事実とはほど遠い話なのですが,ホープにはこのような伝説を生む,不思議な魔性があるのでしょう。

○オルロフ(Orloff,Orlov)

ロシアのオルロフ公の名をとったこの石は,194.7カラットあり,もともとインドのヒンズー教の神様の目の1つとして輝いていました。18世紀中期に,神様の護衛兵であったフランス軍の兵士によって盗まれ,英国からアムステルダムに渡りました。そこで,オルロフは40万ルーブルという大金でその石を買い,彼の前愛人であったカトリーヌ女帝に献上しましたが,女帝は1度も身につけず,皇帝の笏にはめ込んでしまいました。

このダイヤモンドは,今もそのままクレムリン宮殿に保存されています。その後,女帝の愛が明らかに他に移ってしまったことを知ったオルロフは,深い苦悩に陥り,ついに気が狂ってしまい,狂人収容所に入れられ,1783年,その生涯を閉じたのでした。(続く)

*写真提供三洋出版貿易(株)

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