• 中部職業能力開発促進センター所長  村瀬  勉

いつのことであったか,将棋界無敵の若武者,羽生善治6冠王が「読み」について,「勝負どころでは300手から400手はじっくり読みます。本筋は20手として枝葉の部分がすごく多いんです」と語っていた。私は,それを聞き物事を判断するときはもう少し先を読まなくてはと思った。

1月,「阪神大震災」が起こり,地震予知の問題と耐震神話がきびしい批判の的となった。「いつ」「どこで」「どの程度」という予知の課題に,現在の地震学と火山学は,人の寿命と比較できる実効的解答を未だだせない。「どこで」については,火山は狭い地域に限られるが地震では広い。また,地震予知唯一の手段として用いられる「前兆現象と地震発生確率の統計的関係」が予知の課題に有効な答えをだすことができるかどうか疑問である。何故ならば,大震災をもたらす地震の数は少ないうえ,地震は起こるたびに震源の状態が変わる破壊現象だからである。したがって,予知の研究より災害対策に予算をということになる。しかし,この対策は経済的損失の程度がからみ,さらにきびしいものとなる。いずれにしても読み切れないのである。

その辺の事情を考えるため,私が関わった火山観測の経験を話題として供したい。それは小さいが,私には重く苦い経験である。

その一つは,北海道東部にある雌阿寒岳である。1955年に噴火をはじめ,翌年6月やや大きな爆発があった。硫黄鉱山の宿舎を噴石が直撃,屋根の柱を折り,床下までつらぬいた。外にいた私は宿舎にかけ込み被害を調べた。幸い人的被害はなかったが,働いていた人たちは恐怖におびえていた。

1959年になって再び活動期に入り,噴火が大きければ働く人たちに犠牲者がでることは明らかである。私は鉱山の幹部に火口近くの硫黄採掘を止めるよう勧告した。1週間後に噴火したが,けが人もなかった。

もう一つは,1962年6月29日の十勝岳大噴火である。その前日私は,火口壁の崩落がはげしいという硫黄鉱山による情報を調査するため,気象庁の調査団に参加した。この鉱山の硫黄採取は,火口底の煙道で噴煙を冷却するという危険な作業をしていた。

火口壁の調査を終え,火口すぐ近くの外縁にある硫黄鉱山の宿舎で状況を聞き,夕方下山した。その下山の途中,大変なものを見つけた。いつもは冷たい水が湧き出ている所が熱水になり沸騰していたのである。明らかにマグマが近くまで来ている。

翌日,私は地震計を取りに急ぎ大学へ戻った。しかし,その夜,十勝岳は30数年ぶりに大噴火し,真っ赤に燃えた噴石は,宿舎を燃やして埋め,山の形を変えた。前日,話を交した人のうち5人が亡くなり,けが人もでた。私は呆然,言葉がなかった。

この場合,火口の中以外に硫黄を採る所はなく,雌阿寒岳のような勧告はできない。採取を止めよということは会社を潰せということであった。いや,結局,会社は廃業となったのだから人命を救うべきであった。この思いが今でも私を苛む。結果論ではあるが,働く人たちを夜だけでも下山させるという読みが残っていたのである。雌阿寒岳の経験から,一刻も早く地震観測を始めなければと判断したことが仇となったのかもしれない。

3月,羽生氏は,谷川王将と千日手指し直しのあと敗れ7冠王を逸した。私は,人の読みの限界と予知の問題の深刻さを再び考え噛みしめている。

むらせ つとむ

むらせ つとむ
むらせ つとむ

略歴

昭41 北海道大学を経て職業訓練大学校(現職業能力開発大学校)勤務
61 学生部長
平4 研究課程部長
6 現職

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