2022年3号「技能と技術」誌309号
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福岡職業能力開発促進センター 和田 正博「弘こう法ぼう筆を選ばず」というが,これはまっかなウソだ。本当の名人達人は,道具作りの名人。職人がもっとも心しん血けつを注ぎこまなければならないのは道具,なかんずく刃物だ。特にどんな刃物も研とぎの違いで全てが決まる。名工と凡人の差は紙かみ一ひと重えなのだ。重い腰をやっと上げ,「三井の大黒」をこしらえ始めた左甚五郎。仕事はじめは使う工具の刃先を研とぐことから始まる。大事にしまっていた師匠から譲り受けの『のみ』を文ふづ机くえに並べた。「端は切ぎれが少し柔らかいからな」と独り言。やや刃を鋭角に研とぎな-34-おすのに二晩。すべての『のみ』を研ぎ終わるのに不眠不休でさらに二晩。仕事は段取り。準備万端整ってから,部屋の床の間に安置していた端は切ぎれを手にし,『のみ』を入れた。あとは,心を無にして座っておれば,『のみ』のほうで勝手に端は切ぎれの中に隠れている大だい黒こくを掘り出していく。甚五郎の荒加工はすさまじく速い。そのうえ,正確に刃を入れていく。が,仕し上あげ代しろはあえて厚目に残す。彼ほどの腕ならば,仕し上あげ代しろを薄くしても万が一つにも削り損ずることはない。が,速く仕上げるだけでは甚五郎の作品の肌触りは出てこない。仕上げを丹念に何度も繰り返し,時間をかけて削っているうちに,仕上げの『のみ』の刃先がなじんでくる。その微妙に摩ま耗もうした頃合いのよい刃は先さきでないと「味」が出てこない。それが彼の作品の真骨頂なのだ。甚五郎は何度も何度も薄い仕上げをていねいに繰り返した。「精せい魂こんこめて」とは,この時の甚五郎の姿のことなのだろう。最後に薄紙一枚をはがすかのように大だい黒こくが姿を現した。「よし」とつぶやいたときには,その精せい魂こんはすっかり尽き果てている。頭を上げた時には気がすっかり抜け,『ポン助』に戻っている。一方棟とうりょう梁も二階から聞こえる物音で『ポン助』があまり寝ていないのを心配していた。かなりやつれて降りてきた『ポン助』に「おいおい,寝てないんじゃないかい。大丈夫かい」「なあに,大丈夫さ」そして,『ポン助』はたまたまそこに居合わせた若い衆の梅1.甚五郎の『のみ』2.大黒(だいこく)左甚五郎 その三

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