2022年2号「技能と技術」誌308号
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福岡職業能力開発促進センター 和田 正博左甚五郎,思わぬ成り行きで名前を明かすことができず『ポン助』として棟とうりょう梁の政五郎が預かる普ふ請しん場ばで働いていた。しかし,急ぎ仕事の江戸の大工の中で,上かみ方がたからやってきた甚五郎はうまくなじめないでいた。甚五郎は京都の寺社などで,金と時間に糸目を付けぬ宮大工を長年やってきた。より良いもの。千年の耐久性が求められる,ていねいな仕事を積み重ねてやってきた。しかし,江戸の町まち普ふ請しんではそれが通用しない。「火事とケンカは江戸の華」。江戸幕府草創期,世情が安定せず,不審火も多い。江戸の大工たちが「急ぎ仕事」に必死になるのは,このあまりに多い火事に大きな原因があった。「関ヶ原の戦い」翌年の慶長6年(1601年)から,「大政奉還」のおこなわれた慶応3年(1867年)に至る江戸時代267年間に,江戸では49回もの大火が発生。ちなみに,京都は9回,大阪が6回,金沢が3回というから,いかに江戸に火事が異常に多かったか。ちなみに,明めい暦れきの大火(1657年:明めい暦れき3年)では完全に江戸が焼け野原になり,10万人の死者が出たという。これは,「関東大震災」や,「東京大空襲」に匹ひっ敵てきする大惨事である。さらに大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数えと,これ以上はきりがない。異常なほどの火災都市である。「家を新築しても三年目には焼けてしまう」というのが,当時の江戸の常識。焼け出されるのは当たり前と,江戸の人々は開き直っていた。しかも,江戸初期は火ひ消けし制度がまだ確立されておらず,有名な「いろは-31-四十八組」ができるのは,百年後の八代将軍吉よし宗むねの時代のこと。消火技術も未熟,ポンプを使った放水消火はまだまだ先の話。このころは延焼を食い止める「破壊消火」しかなかった。家屋の柱は2寸(6cm)程度にしておき,いざとなったらすぐ壊せるようにしておいた。ていねいな仕事よりも,プレハブのように早く安く簡単に作ることが先決だったのも仕方がない。棟梁の政五郎は,『ポン助』が非ひ凡ぼんな腕を持っていることを見抜いていた。できれば,その高い技術を若い大工衆に伝えて育ててほしいと思っていた。しかし,ていねいな仕事をする『ポン助』を「仕事1.江戸の火事左甚五郎 その二

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