2022年2号「技能と技術」誌308号
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-25-用いた「ニュートロダイン方式」,あるいは現在でも広く普及している「スーパーヘテロダイン方式」も使用された(9)。しかしこれらの受信機は,真空管のフィラメントの加熱に直流電源が必要であり,しかもフィラメントを加熱するA電池(低い電圧で,大きな電流容量が必要),プレート―カソード間に印加する電圧をつくるB電池(高い電圧で,電流容量はそれほど大きくなくてよい),バイアス電圧を作るC電池(電圧・電流ともに小さい)の電圧の異なる3種類の電池を管理する必要があった。A電池,B電池はラジオ商店で定期的に充電する必要があり,購入にしても維持管理にしても手間と費用がかかるものであった。真空管を使う形式としては,「レフレックス式」があり,これは1つの真空管で高周波増幅と低周波増幅を同時に行う方式であった(9)(10)。この方式は,検波を鉱石によって行うものが多かったようである。「再生式」は,正帰還をかけることにより利得を稼ぐ方式であるが,これは発振して振動電流が流れてしまうと妨害電波を生じ,隣家では放送を受信できなくなってしまうことから,放送開始からしばらくの間はその使用が法令で制限されていた(9)(10)。その後,昭和3年頃にヒータを交流電源によって加熱できる交流式真空管が登場し,電灯線からの電源の供給が可能となり,これによって受信機を構成する「エリミネータ式」が登場するに至って,真空管ラジオが本格的に普及していくこととなった(1)(11)(12)。今回,筆者らが題材としたラジオ受信機は,さぐり式鉱石ラジオであって,文献中から最も標準的で簡単に再現可能であると思われるものを検討した。その結果,文献(13)に挙げられている次の受信機を題材とすることとした。題材とするラジオ受信機の回路図を図1に示す(13)。また,実際に筆者らが制作したラジオ受信機の正面写真と背面写真をそれぞれ図2,図3に示す。本受信機は,上部コイル,下部コイル,可変容量蓄電器(バリコン),鉱石検此處も二日早曉類燒し,最初の計畫が畫餅に歸したのは甚だ遺憾であつた。翌二日取敢えず郊外に於て通信連絡を取る方針に出で,線路經過地の關係上先づ火災に無難であつた千住局で大阪,名古屋,仙臺の各地それ應急通信連絡の途を開くことが出來たのである。此れ實に二目午後十一時であつて,殘炎尚巷衢に満ち,炎熱末だ去らず,到る處危倶を以て蔽はれた眞最中のことである。かくの如くして辛じて樞要都市との通信を行ふことを得るに至つた』以上のように,震災を契機に電信電話による通信網の整備が大きく注目され,その1つとしてラジオ放送も開始される運びとなったわけである。ラジオ放送としては,その1925年(大正14年)3月1日,東京放送局(JOAK)からの試験放送を経て,3月22日に仮放送として開始された。同年中に大阪放送局(JOBK),名古屋放送局(JOCK)も追って開局し,主要都市において放送が始まることとなった(5)。翌1926年には,日本放送協会として統合されることとなり,全国あまねく放送が受信できるような体制づくりが要請された。この政策の一環として特筆されるのは,「全国鉱石化計画」である(8)。これは,鉱石ラジオのような簡素な受信機であっても全国で受信可能となるように,送信所の建設と出力の増強をおこなっていくというものである。この計画のもとに各都市に送信所が建設されたが,その後の真空管ラジオの普及により,微弱な電波であっても十分に聴取できるようになったことから,実際にはこの計画の完成をまたずして,その目的を達成した。その後,有線・無線による全国ネットワークの構築,短波放送による海外向け放送の開始を経て,ラジオは急速に普及した。次に,受信機の歴史について概観する。放送開始当時最も使用された受信機は,「鉱石ラジオ」と呼ばれるもので,全聴取者の7割を占めた(1)。これは,真空管等を用いた増幅回路を一切持たず,鉱石と金属針の接触時に生ずる整流作用によって検波を行う,最も簡易な形式のものである。しかし,この方式は,小型のマグネチックヘッドホンを駆動するのが精いっぱいで,複数人でラジオを聞くことはできなかった。同時期の高級ラジオとして,真空管を3.再現する鉱石ラジオ

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