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東大寺三月堂谷樋部分の拡大高柳板金株式会社 高柳 一男我々の仕事の中に樋工事がある。樋(とい、ひ)のルーツを考えてみる。人類は生活するために水を利用してきたが、給水と排水では排水の歴史の方が古いようである。樋の起源としては、建築物では奈良の三月堂に最古の谷樋が現存している。三月堂は、元来正堂と礼堂とにそれぞれ寄せ棟造の屋根が掛けられ並び建つ「双堂」と呼ぶ形式の堂であった。本堂は天平創建時のままであるが、礼堂は鎌倉時代の正治元年(1199年)再建で、おそらくこの頃、現存している谷樋が施工されたのではないか。ついで、文永元年(1264年)ごろ大修理が行われて、この時現在のような入母屋造に屋根を改修し、谷樋の上に屋根がかけられたこのため、水が流れることもなく、腐らないまま谷樋が現存していると思われる。この谷樋は外側から見られるのは木製であるが、内樋は金属かどうかの確認は取れていない。板金材料を語るうえで、鉄の事情も知っていなくてはならない。現在あるようなアングル等の鉄の製法は、溶鉱炉で鉄を溶かすかたちである。しかし、江戸時代には現代のような溶鉱炉の技術はなく、砂鉄から鉄を作る技法と、鉄鍋・鉄瓶などを鋳物からつくる技法が主流であった。だから大量生産で鉄板を作ることは出来ない時代であった。鉄で屋根を葺くことは高価なうえに、すぐに錆びてしまうから、鉄を板金材料とはしなかった。錫メッキしたブリキ-43-板や亜鉛メッキした亜鉛鉄板(トタン板)の材料は明治以降に日本に入ってきているし、銅板にしても、機械による圧延技術のない日本で使われたのは西洋からの輸入材料であった。江戸、横浜、神戸あたりを中心にして材料が輸入され、その材料が手に入る者しか屋根葺きが出来ない時代が続いたと思う。明治時代になっても、金属で屋根を葺くことが一1. 樋のルーツ2. 明治時代の鉄と屋根の歴史建築板金とそのルーツ(後編)

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