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銅板の打ち出し加工:こちら側の柄と裏側の柄が合体しているなっているのである。それを止めている釘は、銅塊を槌加工した角型断面の釘(犬釘という)である。使った工具を想像してみる。圧延には大きな頭の槌を使用し、金槌、鏨(たがね)で切断、曲げるには、折り台のような工具があったのであろうか。キャップのかまぼこ形状のアール面に入っている折り目はおそらく木型を作って鏨で筋を入れたであろう。さらに銅釘を打つ位置に穴を開けるのは、キリがどうしても必要だろう。金切りはさみは有ったであろうか。材料を切るには鏨しか使うことが出来なかったかもしれない。もちろん板厚2~3mmの銅板をはさみで切ろうとしても今でも無理であるが。この条件では、はぜ加工1)をして屋根を納めることは板厚からして不可能である。屋根の雨仕舞い納め2)にはぜによる工法はまったく見られなかったが、この時代はぜ組工法は無かったかもしれない。さらに定光寺一番奥に、廟の門があるが、その格子になるところに唐草模様の銅板による打ち出しが見事である。打ち出し加工された形状が表側と裏側とに貝殻のように見事に合体している。当たり前であるかもしれないが、手加工によりここまでやれるかと思うと気が遠くなる思いである。まさに、銅板打ち出しの左甚五郎である。この時代は銅板を使った屋根、壁の建築物が多くあるが、これほど当初の銅板加工を残している建物は見当たらない。他の建物では、40年位遡るが、駿府城天守閣(1609)、名古屋城天守閣(1612)、久能山東照宮(1617)、日光山東照宮銅板葺-23-に葺き替え(1654)のように銅板葺きがこの時代多くあるものの、現在まで当時施工された銅板が残っている建物は存在しない。焼失したか葺き替えられたかである。銅瓦職人という職種があったと聞いたことがある。この時代、江戸幕府関係のこうした銅板葺屋根の仕事で全国各地を回っていたことであろう。日光東照宮の銅板葺屋根の材料の厚みに関する資料がある。平井 聖氏著書による屋根の歴史の中に、銅板がどれだけの厚みに槌で圧延されて屋根に葺かれたのか計算されている。それによると平瓦:長1尺3寸1枚の銅目267匁余巾1尺1寸 手間料3分5厘8毛丸瓦:長1尺3寸1枚の銅目187匁8分巾6寸5分 手間料1分9厘4毛とある。これは承応3年の禁裏造営の記録で、すべて大きさと重量で記録してあるので銅の比重8.5を基準に計算していくと平瓦は0.888mmと計算できる。次に丸瓦については、1.0648mmと計算される。この結果から見ると東照宮の銅板は定光寺の銅板と比べると4分の1の薄さまで圧延されていたことになる。携わった人によってこんなに板厚が違うのはなぜなのか。しかし定光寺の銅板屋根は平成の今でも酸性雨の被害で穴が開いたところはないと思う。鉛で葺いた屋根は金沢城と高岡市の瑞竜寺がある。瑞竜寺仏殿は1659年に建てられたが、1683年修理、1744年屋根葺き替え1796年屋根鉛板鋳直しをしたことが文化庁の修復記録にある。金沢城の石川門に現存する建物は1787年に再建され屋根は鉛板で葺かれているが、現在ではほとんどがはぜ葺きに葺き替えられている。しかし一部の屋根は葺き替えられずに残っていると思われるところがある。そこは、3. 古い時代の金属屋根(鉛葺き屋根)

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