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3.おわりに・・・生まれて74年,社会人としての55年を振り返って技能と技術 1/2013③ 社員と共に良き市民になろう。というものである。そのうえで日立幹部と交渉し,大企業へのぶら下がりから抜け出し,独自経営,天下りの受け入れをしない企業としてすでに28年,「当社の常識は一般企業の非常識」と公言してやまない企業になった。その道のりは決して順調なものではなく,大変リスクの高いものだったが,それでも常に配当を続ける無借金経営の会社となった。その詳細は当社ホームページのコラム欄掲載の「実験企業日本コンピュータ開発」をご覧いただきたい。 長期低迷する日本経済の中で,大人達だけでなく子どもたち,若者達までもが元気も勇気も,自信も無くしている。学業を修了して新たに社会人となる就職に当たっては,夢と希望,勇気と意欲を持って,意気揚々と社会に出てきてほしいと思う。しかしながら現実には,明るく逞しい若者らしさより,草食系などと揶揄されるように,暗くてひ弱な,どことなく自信のない若者像が目に浮かぶ。就職活動する若者達の多くは,自分がこれから生きて行く社会や人生についての知識はなく,一方的に自分勝手に想像し,思い込み,その社会を利用して自分の好きなことをして楽しみながら,自分だけの安心安定を求めて,その要求を満たしてくれる職場探しに奔走している。この世界一恵まれたすばらしい国日本に生まれながら,次代を担う若者達がそのことに気づかず,それを維持発展させることに興味も持たず迷走している。 その原因,背景には,「子どもは親の背中を見て育つ」という日本の古くからの教えを忘れ,背中を見せることを忘れ,あるいは見せるべき背中を持たない大人達の存在があるように感じている。その罪滅ぼしの一環として,私は自分の歩んできた,リスクに満ちた道を振り返ってここに綴り紹介した。 私は83歳で死ぬものと覚悟している。父親も,長兄も,そして次兄も83歳でこの世を去ったからである。人が死ぬことは生まれた時からわかっている。-40-死は決して悲しいことではなく,人生のゴールである。それならば私は,あのオリンピックでのマラソンのゴールのように,あるいは箱根駅伝でのゴールのように,拍手喝さいの中で人生のゴールに飛び込みたい。自分から「サヨナラ!」といって何も持たずに行きたいものである。その為にやるべき最後の仕事は,自分の人生経験やそこから学んだことを纏め,次代を担う若者達が自分の人生を考える時の参考となる様に伝えることだと思う。 私の人生は一般の人達に比べればリスクが多く,決して幸運ではなかったかもしれない。しかし私は若い頃から「反省はしても後悔はするな」と肝に銘じて,全力で生きてきた。その自分の人生に悔いは無い。そして今振り返って,自分の人生を性格づけてきた要素を次のように思う。① 貧しい持代に,貧しく育てられたこと。そういう育て方をしてくれた親兄弟に感謝したい。  このお陰で,小さなことでもうれしく,感動し,感謝できる。また機会が与えられると喜んで勉強もし,苦しくても簡単にギブアップすることもない。② 社会への第一歩で,古き良き時代の,日本企業の社内教育を受けたこと。しかも若くしてその大企業を離れ,厳しい中小企業に出る機会を与えられたことで,大企業病にならなかったこと。③ 田舎者で要領が悪く,難問にぶつかってもそれを回避する術も,知識も持ち合わせていなかった為,逃げ出さずに真正面から取っ組み合いをするしかなかったこと。 そして,これまでの人生体験から自信を持って言えること,それは①「リスクの有る人生にこそ面白さがある!」②「リスクの有る仕事にこそ遣りがいがある!」③「差し障りのある話にこそ聞く価値がある」 人生には言い訳無用。如何に立派な言い訳理由を見つけても,それで自分の人生が良くなるわけではない。自分の人生は,自分にしか与えられなかった,自分でしか生きることが出来ない,世界でたった一つの人生。人生は,自分が一生を掛けて創り上げる芸術作品である。

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