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2.8 再び転職2.9 バブル経済に浮かれる日本,日本の企業はおかしい当時自分では見たことも無いクレジットカードを渡され,「日本人が少ないので,日本人に対する先入観が無く,かつ教育レベルが高いミネソタに行け」ということになった。社長命令に従って,自信も知識も経験も,能力も無いまま,私は初めて単身で,異文化の国アメリカへ会社つくりに行くことになった。サンフランシスコでミネソタ行の飛行機に乗り換えるだけでも精いっぱい。ミネソタへ到着してハタと気づいたことは,「そうだ,今夜のホテル予約が無い」ということ。言葉は通じない。知人も居ない。ホテル予約の仕方も知らない。それでもどこかに泊まるしかない。空港職員を捕まえて手ぶり身振り,辞書の単語を並べるなどあらゆる方法でホテルが必要なことを訴え,やっと確保してタクシーで送り届けて貰った。それでも確か一泊のみの予約と聞いた様な気がするが,言葉が通じないことを良いことに一週間居座るなどの無茶を繰り返しながら,一ヵ月間に渡ってホテルを転々とした。そしてやっとワンベッドルームのアパートを見つけて入居。それから知識も経験も無いまま活動を始め,通算6年の間に,会社の設立,営業活動,輸入販売,工場建設,製品開発などに挑戦し,最終的には110人ほどのアメリカ人を採用する優良企業に育った。 この詳細はページの都合でここでは割愛するが,当社ホームページ htto://www. nck-tky. co. jp のコラム欄に「成果は後から付いて来る」というタイトルで掲載されている。 家族を連れて家まで買って,定住も覚悟して通算6年間滞在していたある日,日本からミネソタの自宅へ電話がきた。電話の主は,今は日立の幹部,日立時代にお世話になった当時の上司である。そして「一日も早く帰国しないか?」という。その状況に何か有りそうな予感がしていったん帰国した。そこでこの日立の孫会社の位置づけで設立した(株)日本コンピュータ開発の存在と,その初代社長が日立時代の職場の先輩であることを教えられ,今病気で入院しているから見舞いに行くようにと勧められた。早速病院に見舞いに行くと,社長は癌の手術を終わり,やっと口が利ける状態でベッドの下から遺-39-言状のコピーを取り出し読むことを要求する。そこにはこの会社を手伝うことを前提にしていろいろなことが書かれていた。社会人としてのスタートに当たっての基礎教育,そして高等教育をしてくれた恩義有る日立が設立した会社,一方では明日にでも死ぬかもしれない先輩を前にして,要請を断ることは出来ず,その場でピンチヒッターとして一時的にでも手伝う覚悟をした。そこで帰国後社長を務めることになっていた京都の本社に電話で辞職願をし,その返事を待たずにこの会社への出社を始めた。すでに48歳。またしても予期しなかった運命の転職であった。 1987年,アメリカから帰国してみた日本には異常な活気があった。1980年にアメリカ人が書いた‘Japan as number one’なる本が発行されて以来,日本経済は破竹の勢いで企業も個人も皆金儲けに夢中になって居た。アメリカという外から帰ってきた私には,この異常さを見て,1979年にアメリカへ会社つくりに行った時に感じたと同じ様に,「これで国民が幸せになれるのか?」という疑問が湧いた。このことはそのまま日本企業のあり方への疑問であった。「経済発展を支えるのは企業。日本企業はおかしい。いまこの設立して2年半しか経っていない未熟な会社の経営を担うことになった。この異常な日本企業と同じになってはいけない。」そこで単なるピンチヒッターではなく,この会社のあり方を根本から見直し,新しい考え方の会社に育てることを覚悟した。まずは会社としての基本姿勢を「会社と社会の関係はGive & Take」と定め,目指すべき経営は「生き残る経営ではなく,いつ倒産してもよい経営」を目指す。「売上高や企業規模の拡大を追及するのではなく,自立した良き社会人としての社員育て」を目指す。「儲かる仕事より,儲からないが社会の役に立つ仕事を儲かるようにする経営」とし,3つの経営理念を持った理念経営に徹することにした。それらは① 社会に役だつ仕事をしよう。② 社会に役だつ活動をしよう。若者達に伝えたい

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