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写真4 西村勝三の銅像写真5 靴業発祥の碑図1 和服にブーツ  のイメージ研究ノート築地入船町に伊勢勝造靴場を開業した。その後,明治35年に他社と合併し,日本製靴株式会社(現リーガル・コーポレーション)となった。(東京都中央区入舟町3丁目に設置されている靴業発祥の地である記念碑(写真5)) 2年後には,大塚岩次郎(佐倉藩)も製靴技術を学び,靴の事業へ本格的に参入した。この頃から洋式の生活文化が浸透する時代に入り,洋式の靴などが使用されるようになるが,この時期の利用者は未だ一部特権階級が中心であった。 一部の人とはいえ,日本での洋式の靴はまず,官庁,警察,軍隊,学校などといった官需である「基幹市場」に拡大し,「富国強兵」「殖産興業」などの国の大方針のもとで,靴産業は軍事産業の1つとして発展することになった。-35- 靴の製造技術を学んだ前述の大塚岩次郎は,1872年に14歳で大塚製靴株式会社の前身となった大塚商店を開いた。 本格的な靴の量産体制が動き出す契機はやはり軍靴であるが,例えば,陸軍や海軍からの製造依頼を受けた企業(日本製靴㈱、大塚製靴㈱など)が,軍需物資調達の役割を担うこととなった。日本製靴㈱は主として陸軍の軍靴を,大塚製靴㈱は主として海軍の軍靴の生産を担当した。 1883年に開設された「鹿鳴館」は,民間靴(民需)の需要を呼び起こす切っ掛けとなった。官需,民需を問わず,西洋風の靴の製造においても,他の産業で見られるように,その指導や技術移転にはお雇い外国人が活躍した歴史がある。この時期にフランスで靴製作を学んだオランダ人の職人のレ・マルシャンを招き,指導を受けつつ本格的な洋風靴の製造を始めた。マルシャンは日本の洋式靴生産に大きな足跡を残した恩人で,後に帰化し磯村姓となった。 洋風化には何れの場合も伝統的生活習慣からの抵抗は見られるが,「クツ」においても相そぐわないキモノとの組み合わせには違和感を多く持たれた面はある。 しかし,1899年ごろから和服を着用して,ブーツを履き,髪にリボンをつけた女子学生が現れるなど,生活文化へ大きな影響を与えることになった(図1)。 そのような流れのなかで,皮革製の靴などが本格的に一般大衆にまで広く普及していくのは,やはり第一次世界大戦以後になるといえよう。第二次世界大戦後,昭和26年~40年頃にかけては高度経済成長とともに経営,設備の合理化,近代化が促進され,一般国民生活の向上と,ファッションの洋式化に伴い,広く国民に普及していくことになった。

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