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魅力や価値を感じるようだ。それを裏付けるものとして、日本には芸や技の伝承法である「型」文化がある。作法のように決まった型の動作を何回も何年も繰り返す。一見マニュアルのようであるが、その行為の目的は作業や効率、生産性ではなく、教え、学ぶ対象の人そのものであり、その到達レベルに応じて「一子相伝」とか「免許皆伝」に至る。手間と時間はかかるが、個々人の能力を重視した伝承法であり、究極のモノ(者・人)づくりと言えよう。マニュアルは普遍化(画一化、No.1)であり、型は個性化(Only 1)を目指すものではないだろうか。そのような伝承法の成り立ちを考えてみよう。 「春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、少し明りて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。(『枕草子』第一段)」 有名な清少納言の『枕草子』の始まりの文章である。『枕草子』は、平安時代の宮中にいた女性の、日々の生活や想いなどを綴ったものである。日本人なら誰しもが、その素直に描き出された春の色彩豊かな夜明けの情景を思い浮かべることができるだろう。千年を超える時の隔たりがあるにもかかわらず、我々は彼女と共通の認識を持つことができる。日本の伝統的な色名には、鴬色、朱鷺色、鼠色、玉虫色、桜色、山吹色、露草色、藍色、萌葱色等など、鳥や獣や虫、花や草木、鉱物など、自然界の物や現象をそのまま色名とした物が多い。だが、その数はわずか300色ほどしかない。欧米のように万の単位のプリズム分光的な色定義は行われなかった。しかし自然を挑戦し征服するものと捉えてきた欧米と異なり、自然と融和し共存する中で培われた観察眼と洗練された感性によって、例えば水の変化について、雨、霧、靄、霞、露、霜、雪、等の微妙な現象を識別し表現しているように、千年変わらずにある自然の中の「表意300色」で、単なる「表音色」を越えた無限の色彩・情景表現を可能としていた。四季の変化に心を動かし、虫の音に癒しを感じる、日本人だからできた「以心伝心の技」である。 さて、このような精神的なものを、日本人はどのように育み、磨き上げてきたのだろうか。例えば、「わび」とか「さび」、あるいは「いき」とか「いなせ」であるが、その伝承・洗練法のひとつが「型」ではないかと思う。すなわち、作法のように決まった動作を何回も何年も繰り返すことによって、立ち振る舞いは洗練され、美しくなる。美しい立ち振る舞いを自然にできるようになるということが、「わび」「さび」「いき」「いなせ」を理解し、体現する事に繋がる。そのように、「型」の文化が成立している。当然、この境地は、誰でもが到達できるものではなく、皆が全く同じ認識になるというものではない。誰でもができる最初の「型」を経て、「型」は個々の能力に合わせて、「わび」「さび」を認識できる境地へ、人を導いてゆくのである。「一子相伝」とか「免許皆伝」といった江戸時代の技の伝承を示す言葉も、ある技のレベルに達しなければ伝達できない、当時の技の在り様を示していると言えよう。茶道や武道では、この「型」を3段階に展開する。「守・破・離」である。基本を忠実に行う段階、それを応用し工夫を重ねる段階、そしてそこから独立し独自の技を創造する段階である。誰にでもできる「型」の長い修行があり、個人の能力の高みである「技」に至るのである。 明治初期、御雇い外人ワグネルが日本政府に提出した『工業の方針』には、「日本の工業を外国の競争に対して拒かんと欲せば日本固有の味わいと其美術心とを永久に保存し日本人民をして決して之を忘れしむべからず」と、第一に日本人の育んできた「以心伝心の技」の素晴らしさを指摘している。江戸時代は、貴族や武士などの一部階層だけでなく、農民や職人、日本の誰もが、それぞれの生活や社会の中で「以心伝心の技」を育み、磨き上げる余裕を持てた時代であった。その「以心伝心の技」で作られた「モノ(物・者)」は、既に当時から世界に知られた、芸術品としての漆工品や陶磁器、染織品などを生みだした。また後に、柳宗悦らが「民芸」と呼んだ市井に育まれた日常の「モノ」まで、社会の隅々に及んでいたのである。そして職人や匠の技が、昔から広く社会で使われてきたということが、今でもまだ日本の人々が技術者や優れた製品に抱く憧れとか尊敬といった感情に繋がっていると思う。「用の美」という言葉は、民芸のような日常にありふれたモノづくり(技)に潜む美である。西洋でも「アート」とい技能と技術 4/2011−20−

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