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写真1 昭和48年頃の日立造船因島工場技能と技術 3/2011図表1 日立造船因島工場の推移 明治以降、尾道市因島地域(当時、因島市)は、日立造船株式会社因島工場(以下、日立因島という)を中心に「造船の島」として発展し、昭和40年代のピーク時には造船業が地域経済と雇用の大多数を担うなど世界でも有数の造船都市を形成していた(写真1参照)。 しかし、オイルショックや円高による未曽有の造船不況により、日立因島が新造船事業からの撤退を含む合理化計画を進めたことで、「島が沈む」と言われる程の経済不況に陥ることとなる。 日立因島の従業員数は直近でも3,300名を擁していたが、昭和61年と62年の2度に亘る合理化策によって従業員数の97%、工場出荷額の96%が削減された(図表1参照)。これは、日立因島の事実上の撤退であり、地域へ及した影響は大きく、経済的な打撃は当然のこと、人材育成の分野においても後々まで問題を残すこととなった。 因島地域における人材育成とは、日立因島が「日立造船因島高等技能研修校」を擁して独自の人材育成を行い、地域の中小造船・舶用事業者(以下、中小事業者という。)は主に日立因島から転出する技能者に頼ることで成立していた。つまり、日立因島が人材の養成・供給基地として熟練技能者が地域内を循環することで人材育成が保たれていたのである。 合理化によって日立因島が実質的に担っていた地域の人材育成システムが機能しなくなったことは、中小事業者が各自で人材育成を図る必要性を意味したが、造船不況下にあった中小事業者は新規採用を抑制したため、長らく若年層の技能者が育つことはなかった。このため、造船業が落ち着きを取り戻した後も中堅技能者となる30代の技能者が圧倒的に不足する「ワイングラス型」の歪な年齢構成となり、技能伝承が途絶える懸念を抱えることとなった。1.序論尾道市役所因島総合支所しまおこし課 若住 堅太郎−6− 地域基幹産業における人材育成手法〜因島技術センターの人材育成モデルと成功要因についての一考察〜官民一体となった

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