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2.見て習い,して習い,聞いて習う実践的な知識が不可欠である。違った領域では,棟梁と呼ばれている建築職人の親方は,職人といわれている人々の中でも1つの典型的なタイプといえるだろう。設計・製図そして建築素材の吟味・選択はもちろんだが,請け負った建物の歴史的,社会的意味を理解しており,さらに建物の内装,置物,時には庭を含めた仕事をも受け持たなければならない。これには建築そのもの以外の職人の信頼を得なければならず,建築以外の知識,教養を持っていなければ総合的な仕事の指揮はできない。特に神社・仏閣を手がける宮大工といわれる親方職人=棟梁の多くは,現代建築を職業とする技師と呼ばれる人々が,種々多様な職人の頂点に立っている点では共通だが,学校というシステムの中で専門教育されたわけではないにもかかわらず,現代建築に比肩する建物を作ることができるのを見ることができる。 親方の元で修行する徒弟は,現代の学校で行われているような教育を受ける,あるいは教えてもらうことはない。近代学校が,生徒・学生を集団として教育するのとは対称的に,徒弟は親方あるいは職人とmantomanの関係の中で育てられる。また「聞いて習い,して習う」という学校の教育の仕方とは逆の関係である。しかも学校教育の中核である教科教育では「見て習う」ことは重視されない。しかし徒弟はこの「見て習う」ことから彼らの全生活がはじまる。徒弟が,職人になり,さらに親方になるまでの全修行過程も,いわば「見て習う」,見習いのプロセスであるといってもよいであろう。多くの人間国宝といわれる「無形文化財保有者」としての職人が「生涯修行です」と言うのは,自らの手で完成した作品を超えて次の仕事がはじまるとき,そこには吟味,評価するという意味での見習いがあり,同業他者の優れた作品に啓発された場合も,「見習う」行為といってよいであろう。しかし親方と徒弟の関係は雇用関係である。したがって徒弟の「見て習う」または見習いは,この関係の中でのそれあることはいうまでもない。5/2009 見習うという行為は,ただ眺めるのとは質的に違っている。見る範囲,見る視点,見たものの自らへの取り込みは,修行の経過とともに違ってくる。上で「親方と徒弟の関係は雇用関係である」と言ったが,それはいわゆる教育的関係とは異なることを意味している。つまり,この親方-徒弟という雇用関係は,十歳代で職業経験がない者を徒弟として受け入れる。しかも徒弟は後述するように厳しい条件を満たした後に就業することになるが,入職する徒弟すべてに「やる気」があるのか,厳しい修行に耐える「根性」があるか,つまり「仕込みがい」があるかは始めてみなくてはわからない。したがって遠藤元男が述べているようにそれは厳しい労働,しごきととられることもあった(1)。 現代であれば,徒弟に入ることは雇用関係の下での修行であったにしても義務教育終了後であるから,家事労働に使い回されることはないであろう(2)。しかし江戸時代であれば12,3歳で徒弟として雇い入れられやがて彼が職人になりさらに親方になって一家を構えることになれば,それは貴重な経験の内に入るであろう。いずれにせよ,家事労働に従事させられることはなくなったにしても,徒弟修行の厳しさは変わらない(3)。 徒弟にとって「して習う」または「し習う」ことは,遠藤の「仕事に関することといえば,道具の整徒弟の労働のうち,その初めは仕事に関係することよりも,家事労働の比重が大きかった。家事労働には水汲み・飯炊き・庭掃き・風呂炊き・子守り・使い走りなどがあった。仕事に関することといえば,道具の整備や材料の運搬や簡単な初歩の仕事と道具の使い方といったものであった。いわば下働きである。仕事についても,見様・見真似で覚えろとか,仕事は盗めとかいわれている。口でいうより手が先に出るといったこともあった。何十年と一つの仕事に打ち込んできた職人の談話には,きびしく仕込まれ,しごかれた徒弟時代のことがなつかしく語られいる。親方に対する恨みがましい気持ちはない。そうしたしごきにに耐え抜いてきたからであろう。耐え抜くことが,人間形成の要点であった。27

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