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1.「お前は学校へ行け!」元職業訓練大学校指導学科教授山崎 昌甫エッセー これは小学校5年当時,父が私に言った言葉である。軍人志望で兵隊ごっこに夢中になっていた私に,“ちゃんと”勉強することを促すとともに,わが家の仕事への能力がないことをみてとって「宣言」したときの言葉である。図画,書き方,手工が下手で成績もよくなかったからである。私の兄3人は高等小学校を卒業すると,父親の弟子として家の仕事をしていた。多趣味の父の影響を受け,仕事と関係のある趣味をのばすことには費用を惜しまなかったので,それぞれの分野の展覧会などで高い評価を受けるまでになっていた。 このような事情が,敗戦後,陸軍予科士官学校から復員し,改めて大学に進学して専攻することになったのが技術教育関係とりわけ技能の問題,職人の修行のプロセス,そしてこれとは対称的な会社つまり,企業内技術教育を研究するようになったのではないかと思っている。もちろん家の仕事の社会的役割を簡単に解明できるとは思ってはいなかった。 父は,田舎の資産家の家に生まれ,東京の法律専門学校に進学したが,油絵に夢中になって絵画塾に通っていた。ところが祖父が投機に失敗すると迷うことなく学校を退学し,絵の師匠の薦めで造形職人の道に進んだ。どのような経緯でそれを選んだのかは聞かなかったが,やがて工芸彫刻とりわけ原型彫刻を職業にするようになった。工芸的あるいは美術的な原型彫刻は,当時ほとんど造幣局のようにな条26件の整っている所でしか行われていなかったという。私が「学校に行け」と言われた当時,私には判断がつかない種類の形状そして膨大な数の手作りの鏨はもちろんだが,わが家は「町工場」のような設備を備えていた。50トンプレスをはじめ,旋盤,形削盤,鋸盤,ボール盤さらに焼き入れのための炉を備えていた。工作機械類は,納得する仕事をするためには外注ではなく自製しなければならなかったからである。仕事は,立方体の鋼塊に注文に応じて男型,女型を彫刻し,最終的には男型に真鍮板など置いて形押しするためである。町工場で働いていたわけではないのにこれだけの機械を備えてこれを使いこなすようになるまで,原型彫刻をしながら学び取ったというのである。職人が一家を持ち,弟子を抱えて仕事場を運営するまでの道のりは,まさに職人の修行に共通するものであったに違いない。しかし家業の原型彫刻という仕事を営む所はきわめて希であったらしい。職人として独自の仕事を身に付けるためには,彼にとって「学校」は役に立たないと思ったに違いない。その仕事に向いた基礎的な能力,その仕事に興味を持っており,さらに仕事に関係する領域に積極的にかかわっていく意欲が必要なのである。 身近な職人の仕事ぶりは,店を開いた優れた日本料理の職人のカウンター越しに見る仕事ぶりを見ているとわかる。繊細かつ的確な腕,つまり,料理方法はもちろんだが,工夫,研究次第で数知れないメニューを創作する知識,経験,そればかりでなく,料理を美しく見せる優れた美的感覚,さらに営業の技能と技術-モノづくりと人づくりの原点-職人の世界

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