研究ノート

日本のものづくりの歴史

―火縄銃にみる日本の工業技術の歴史―

ポリテクセンター八幡

(八幡職業能力開発促進センター)

和田 正博

1.日本のものづくり

 日本は元来,四方を海に囲まれた資源の乏しい極東の小さな島国である。が,今や経済大国日本として,先進国の仲間入りをしている。その日本を支えてきた底力は,「ものづくり」である。

 日本の「ものづくり」には,熟練された技能と技術を基盤に海外の先端技術を柔軟に取り入れ,そこからさまざまな世界を驚かすハイテク技術を生み出してきたという古来の歴史がある。

 この優れた柔軟性・応用性をもったさまざまな智恵こそが日本の豊かな資源であるといえる。

2.温故知新

 その智恵の基盤となるものは現場の技能と技術である。その技能と技術への教育なしに,新しい発想は起こり得ない。

 技術教育を行う場合に大切なことは,難しい内容でも,できる限りわかりやすく語っていくこと,そして教育を受ける人が,「興味・好奇心・仕事への強い意欲」の3つを沸き立たせるように語っていくことではないだろうか。

 筆者はセミナー等の教育を行う際には,必ず関連する歴史の話を取り上げている。先達がたどった足跡を学ぶことは,教育を受ける人の「興味・好奇心・仕事への強い意欲」の3つを沸き立たせることになるし,今抱えているさまざまな問題の解決のヒントが生まれるかもしれないからである。「温故知新」ということわざもある。さまざまな歴史の中には,新しいグッドアイディアの種がたくさんある。

3.火縄銃の出現

 1575年,日本の歴史上重要な戦いがあった。長篠・設楽原(したらがはら)の戦いである。武田勝頼率いる,当時最強といわれた武田騎馬軍団を,織田信長・徳川家康の連合軍が,約3000挺の火縄銃で撃ち破った戦いである。当時の火縄銃は先込め式で,一発撃つと,次の玉の装填には約15秒かかる。そこで,三段構えにして連続的に一斉射撃し,猛スピードで向かってくる武田の騎馬隊を一掃したのである。実はこの戦い,銃火器を組織的に使用した世界初の戦いといわれている。

 ちなみに鉄砲を開発したヨーロッパにおいて,鉄砲を使用して戦闘が行われたのは,長篠・設楽原の戦いに遅れること41年。1616年に始まった30年戦争(~1648年,ドイツを舞台にヨーロッパ各国が参加した宗教戦争)である。

 ちなみに,ヨーロッパの30年戦争が始まった1616年の2年前,1614年,日本では,徳川家が豊臣家を滅ぼした「大坂夏の陣」があった。大坂城を囲んだ徳川軍が装備していた銃は,なんと10万挺。しかも火縄銃から新兵器の大砲まで揃えていた。徳川軍は大坂城を砲撃し続け,ついに,豊臣氏を滅ぼしたのである。これだけの銃を持っていた国は,世界中で日本だけだった。当時の日本は,世界最強の軍備を持っていた。

 日本の種子島に鉄砲が伝来したのは1543年である。わずか1年未満で国産化を実現し,短期間で大量生産体制を確立することができたのは,当時の世界の中で日本だけである。ちなみに,日本よりもはるかに早く,ヨーロッパから鉄砲が伝来したアラブ諸国,インドでは,ついに国産化はされなかった。当時の大国であった中国でさえ,種子島に鉄砲が伝来する25年前に鉄砲を手にしていたのに,鉄砲の国産化はむしろ日本より遅かったとの説もある。このことは日本独得の文化・民族性の一面を示している,といえる。

4.火縄銃の国産化の背景

 この驚異的ともいえる国産化がなぜ達成できたのか。それは,当時の日本には,熟練された高度な技能と技術という工業的基盤がすでに存在したからである。

 その1つは日本刀を作り出す技能と技術。古来より日本では,「ヤマタノオロチ伝説」などのように,日本刀は神聖化されてきた。

 日本刀には冶金学的にきわめて高度な技術が盛り込まれている。つば迫り合いのときの強い衝撃にも折れない粘り強さと,紙もすっと切れるくらいの鋭い切れ味,硬軟の両性質を併せ持ち,芸術的な美しさをも備えていなければならない。日本には,鉄の炭素含有量を調整しながら2つの相反する性質を共存させるというきわめて高度な技術が存在しており,それを実現する高度な技能を刀匠は持っていた。15世紀当時,すでに日本には神業的な高度熟練技能者が多数いたのである。

 もう1つの工業的基盤は,「たたら製鉄」という,非効率ではあるが,きわめて良質の鉄鋼材料を得る技術があったということ。宮崎駿監督の映画「もののけ姫」にも登場した鉄作りである。ちなみに日本が砂鉄の産出量では世界の三本の指に入ることは意外に知られていない。

 この「たたら製鉄」で作られる鉄鋼は,「和鋼(わこう)」と呼ばれ,特に上質のものは「玉鋼(たまはがね)」といわれる。その特徴は,鍛接(加熱しながら叩いて接合する)しやすいことだ。「和鋼」には不純物元素の含有量がきわめて低く,さらに,柔らかくて伸びやすい非金属の酸化物系介在物が含まれているため,きわめて鍛接しやすい特徴を持っている。現在使われている「洋鋼(ようこう)」は鍛接する場合,フラックスを塗らないといけないが,「たたら製鉄」で作られる鉄鋼材料すなわち「和鋼」は,何も塗らなくてもそのまま鍛接できる。「玉鋼」を何度も叩き延ばして折り重ね,数万ともいわれる層にしたものを日本刀の材料としているのである。現在でも刀匠が日本刀などを作る場合は,出雲地方産の上質な玉鋼を使っている。

 日本には優れた技能と技術という基盤が古くからあった。だからこそ,先進的技術を速やかに獲得できたのである。

5.種子島

 時はさかのぼり1543年の8月,種子島に,ある中国船が難破漂着した。この船に2人のポルトガル人が乗っていた。このときの種子島の領主,種子島時尭(たねがしまときたか)は万里を越えて偶然漂着した2人のポルトガル人を大切にもてなした。彼らは,2挺の火縄銃を携えていた。彼らは時尭の厚いもてなしに対し,その返礼の意をこめて,火縄銃の試射を披露した。日本人が初めて銃声を耳にした瞬間であった。時尭は当時まだ16歳。この銃声は,好奇心旺盛なこの少年領主の心を揺さぶるには充分な衝撃であったはずだ。それだけではない。その半年前,大隅半島の豪族禰寝(ねじめ)氏に攻め込まれ,領土の屋久島を占領されていた。すなわち種子島は軍事的緊張状態にあったのである。時尭は,今に換算すると約1~2億円ともいわれる大金を投じ,この2挺の火縄銃を買い上げた。これが我が国に伝来した最初の火縄銃である。このうちの1挺は今も種子島に大切に保存されている。

 時尭は2挺のうちの1挺を種子島の刀匠に見本として貸し与え,複製の製作を命じた。16歳の少年領主の好奇心と探究心,そして,戦国時代という時代のニーズが火縄銃の国産化への挑戦を始めさせた。

 当時の種子島は,砂鉄が豊富で,島内には数多くの刀匠がいた。種子島は武器生産が大変盛んであったのである。いわば種子島はハイテク武器工業の島であった。

 指名された刀匠の中に八板金兵衛(やいたきんべえ)がいた。彼も,その腕と人柄を見込まれていた。金兵衛自身,自らの匠としての誇りと名誉をかけ,若き領主の期待に応えようと必死だった。しかし初めて目にする新兵器を,真似て作るのである。彼は,さまざまな苦難を乗り越えなければならなかった。

 なかでも,銃の銃底を塞ぐための“尾栓”の加工は最大の難関であった。渡来した火縄銃の尾栓にはネジが切ってあった。ここを取り外せる構造は,銃身の清掃や,不発弾の除去などのメンテナンスにおいて,必要不可欠であった。金属製のネジによる締結技術は,この50年前にヨーロッパで実用化されたばかりで,当時の日本には概念すらまだなかったのである。

 現在残されている道具から考えると,雄ネジは,つるまき状にタガネやヤスリで成型したと思われる。問題は,雌ネジの加工だった。

 銃身の材質は,不純物の少ない良質の砂鉄から作られた,炭素量1.0~1.5%の,今でいう炭素工具鋼である。きわめて硬い熱処理がされているうえ,鍛えに鍛えられている。今の加工技術者さえ尻込みしてしまいそうな材質に雌ネジをたてるのである。しかも,今のような工具材,旋盤などは当然ない。

 最初,金兵衛は,鉄製の栓を溶着させただけで済ませてしまい,最初の試し打ちの際に火薬の爆圧により尾栓が飛び,金兵衛は両眼を失明したという伝説が種子島に語り継がれている。但し,このことは正確な記録がなく,後年作られた伝承ではないかといわれている。

 八板家には正確と思われる記録が残っている。これによると,金兵衛は,銃尾栓の製造技術を学ぶために,漂着していたポルトガル人の求めに応じ,若狭(わかさ)という愛娘を嫁がせた。交換条件として銃尾栓の製法を教えてもらうためである。今の国際結婚とはまったく次元が違う。もう二度と愛娘と会うことができないことを承知でポルトガル人に愛娘を差し出すのである。なんとしても国産化を成功させようというその金兵衛の決意は悲しい重さを伴っていた。

 その後若狭はネジの製法を知っている中国人の鍛冶職人を伴って種子島に帰り,尾栓の完成に大きく貢献したという。

 現在残っている工具にネジ型といわれるものがある。これを使い,熱間鍛造法,すなわち,銃身を真っ赤になるまで熱し,その中へこのネジ型をネジこみ,少しずつ大きなものに変えながら,雌ネジの形を作っていったのである。

6.国友

 さて,火縄銃国産化を初めて成功させたところはどこか。前述の種子島での物語が有名なために,種子島が最初に成功したと思われがちだ。しかし厳密に言うと違う。正しく述べると,日本で最初に鉄砲の国産化に成功したのは,種子島ともう1つ,滋賀県長浜市にある国友の2箇所である。

 種子島時尭は2挺のうちの1挺を金兵衛に渡したと前述したが,残り1挺の鉄砲は,薩摩藩主 島津義久に贈られた。島津義久は,これをそのまま将軍足利義晴に献上。義晴はその火縄銃を,今の国友の刀匠に貸し与え,やはり,その複製の製作を命じたのである。当時,国友には,優秀な刀匠が集められていた。日本一の刀匠組合ともいえる。国友の鉄匠たちは,わずか6ヵ月で2挺の鉄砲を完成させ,1544年8月に将軍に献上した。この当時の記録には,刀匠たちは「昼夜肝胆を砕きこれを張錬した」と書かれている。国友も種子島と同様,やはり尾栓のネジの製作に多大な苦労があったことは想像に難くない。その後,国友が織田信長に占領されたあと,刀匠たちは,専門の鉄砲鍛冶となった。当時の記録には,初試作からわずか5年後の1549年に,織田信長から500挺の火縄銃の注文を受け,これを製作した。国友は日本最大の鉄砲生産地として成長を続けていった。

 確かな記録があるわけではないが,長篠・設楽原の戦いで使われた3000挺の鉄砲のうち,かなりの数量が国友で生産されたものと思われる。

 今のわれわれの常識では考えられないことだが,当時としてはこれ以上ないハイテク技術が,種子島と国友という,全く別々の場所で,同時に国産化に取り組み,ほぼ同時期に国産化を成功させたということである。しかも,連絡通信システムがない時代であるから,この種子島からの正確な技術情報を入手するのはきわめて厳しい状況であるはずなのに,技術的難関をほぼ同時に突破しているということになる。驚くべきことであるが,これは偶然の産物ではない。

 新兵器へのニーズがきわめて大きい戦国時代という背景,そしてきわめて高い技能と技術が存在している環境。肥沃な土地に種を植えれば必ず発芽するように,種子島・国友の2箇所で同時に国産化は成功し,さらに堺・伊豆をはじめとして,全国各地に火縄銃製造技術は広がっていった。

 ちなみに,当時の日本の火縄銃は,海外の火縄銃に比べ,格段に質が良い。銃身の鍛接技術が海外よりも優れているため銃身が頑丈であり,しかも,銃身の内径の精度を±1μmという高精度で仕上げる技能を持っていた。命中精度も高く,銃座などの細工も丁寧であった。その高い信頼性の故に,高い値で売買されていたという。

 一方,海外の火縄銃は,鍛接や細工が粗末で,精度も高くないため,値段も安く,当時,「安鉄砲」といわれていたという。

 国友にはさまざまな工夫を凝らした鉄砲が今も残っている。短筒,騎兵銃,携帯式大砲である大筒,20連発式火縄銃,さらに驚くことには構造も原理も全く違う空気銃まである。当時の日本は鉄砲だけでなく,大砲の技術も当時世界の最先端を走っていた。戦国末期にはヨーロッパにはまだなかった精密な照準が開発され,照準技術も確立していた。国友は,前述の「大坂の陣」のとき,徳川家康の命令によって,大量生産体制を作り上げ,砲兵工廠(ほうへいこうしょう;兵器工場という意味)としての役割を果たしている。

7.江戸幕府の時代

 「大坂夏の陣」で豊臣家が滅ぼされてから後253年にわたり,江戸幕府の時代は続いた。しかし,その太平の世と引き換えに,日本は技術開発から遠ざけられる。徳川幕府は新しい技術を厳しく制限した。封建体制の転覆を極端に恐れていたためである。海外との交流は長崎の出島だけに制限し,それだけでなく,ありとあらゆる道具の新開発を封じている。鉄砲の改良なども止まり,鉄砲製造技術は織田・豊臣治世の時代から全く発展することはなかった。鉄砲鍛冶たちは,その能力を新兵器技術ではなく,銃身への象嵌(ぞうがん)蒔絵(まきえ)彫刻など,工芸技術方面にその独創的能力を向けるしかなかった。日本人のきわめて旺盛で独創的な技術的好奇心は,250年にわたって押さえ続けられたのである。

 一方,欧米では,その後もフランス革命,アメリカ独立,ナポレオン戦争,100年英仏戦争,など戦乱が続いた。それらの動乱の中で,互いに技術競争が発生し,さらに産業革命が起こるなどして,欧米の科学技術は飛躍的進歩を遂げていった。日本は完全に世界に取り残されてしまった。

8.ペリーの来航

 ついに,1853年,ペリーの黒船によって太平の眠りを覚まされるまで,海外の技術革新に触発されることはなかった。もしこの間に,本来好奇心旺盛な日本人が,技術革新を続けていた欧米文化にもっと多く触れていたら,すなわち鎖国や徳川幕府の圧政がなかったら,今の日本の姿はもっと違ったものになっていただろう。1853年のペリー来航により,いわば武力によって幕府は開国,日米和親条約という不平等条約を強制された。この11年前,アヘン戦争によって香港はイギリスに割譲されている。日本を第2の香港にしたいという意識は当時の列強諸国には濃厚にあった。また,日本国内の一部の世論は,ペリー来航以前にそれをすでに敏感に感じ取っていた。ペリーによる武力的な威嚇は,日本を急激な変革へと導くことになる。すなわち,列強諸国並みの軍事技術の導入を早急に図るべく,さまざまな試みが日本各地でなされた。

9.模型蒸気機関車の国産

 1854年,2度目のペリー来航のとき,ペリーは33種類の将軍への献上品を持ってきている。有線電信機,時計,望遠鏡,小銃,農具,そして,蒸気機関車の模型である。先進国の技術を幕府に見せつけ,外交交渉を有利に運ぶためであった。

 このとき,日本人を驚かせたのが,蒸気機関車の模型であった。長さ約2m。実物の4分の1の大きさである。横浜に敷設された一周100mのレールの上を時速30km/h以上の速さで走った。幕府の役人はただ驚くばかりだった。

 ペリーの来航から半年前,1853年7月ロシアのプチャーチン艦隊も開港通商交渉のために長崎に来航した。このときも,艦上で20cm程度の小さな蒸気機関車の模型を走らせている。このとき,数名の佐賀藩士が仔細に模型を観察していた。彼らは,佐賀藩に帰り,その模型の製作に取り組んだ。現物はプチャーチンがロシアに持って帰って手元にない。洋書と実験だけが頼りの厳しい状況であったにもかかわらず,彼らは2年後の1855年8月,模型を完成させ,佐賀藩主鍋島直正の前で走行に成功させた。その模型は現在も佐賀県に保存されている。その翌年には小型ながらも黒船を完成させている。

 驚くべきことにこの同時期,佐賀藩以外に宇和島伊達藩,薩摩藩でも,黒船を完成させている。

 再び,日本は驚くべき技術の吸収力の高さを発揮したのである。

 佐賀藩の蒸気機関車模型の歯車などの部品を加工したのは,ロシア艦隊で鉄道模型を観察した佐賀藩士の1人,「からくり右衛門」と呼ばれた田中久重である。彼はとても江戸時代とは信じられないほどの高い精度で,部品を加工している。さらに彼は外輪式蒸気船,スクリュー式蒸気船,電信機,自転車などを作っている。彼が作った「田中製作所」は後に「東芝」となり,現在に至るまで日本の技術を引っ張っている。

10.まとめ

 その後,日本は明治・大正・昭和・平成と激動の時代を経てきた。日本はものづくりの優秀さで世界を驚かせ続けている。日本はものづくりに関しては世界の中でも独特の文化を持っている。今再び,過去の歴史に目を向けてみよう。「温故知新」である。日本にしかできない,日本だけのオンリーワンの技術を確立するきっかけになるのではないだろうか。

<参考文献>

1)奥村正二:「火縄銃から黒船まで」,岩波新書.

2)NHK取材班編「堂々日本史,第1巻」,KTC中央出版.

3)司馬遼太郎:「花神」,新潮文庫.