岡崎市内の銅板による看板建築屋という金属で屋根を葺く職業は無かったかもしれない。さきの江戸城の銅瓦葺き屋根だって、金属屋根を本業とした人によるものではなかったかもしれない。たまたま金属を扱う鍛冶屋さんがたのまれて臨時に関わり、終わったらまた元の鍛冶屋さんに戻るかたちであったか、はたまた器用な大工さんが屋根を葺いたのではないだろうか。とすれば、現在の板金という職業は明治になってから生まれたことになる。明治の何年かは判らないが、銅板屋根の一文字葺き3)が施工されている。おそらく、江戸時代金属細工や、鍛冶屋をしていた人が関わったのだと思う。金属細工といえば、煙管(きせる)簪(かんざし)刀の鍔(つば)仏壇細工、などが考えられる。鍛冶屋といえば刀鍛冶、野鍛冶などが考えられる。刀鍛冶、鉄砲鍛冶は、江戸時代の-25-天保年間、戦がなく仕事が激減し、代わりに金属の加工色付け、象嵌といった飾り仕事の世界に入っていく人が多かったということである。また、昭和20年代まで鋳掛け屋という職業の人がいた。貴重な鋳物鍋は、穴が開いたくらいで使い捨てなど出来ない時代である。修理方法は金属を溶かして穴に注ぎ込んでそこを埋めてしまう技法である。このような人が、金属を加工して屋根に取付ける細工が出来れば仕事になったわけである。錺師(かざりし)とか錺工(かざりこう)という職業名がある。神社仏閣の飾り金物を手がけている職人を中心として呼ばれていたが、建築板金工の呼び名としても使われていた時代があった。しかし戦後しばらくして使われなくなった。岡崎板金工業組合35周年の記念誌の表紙の題字に「錺」の字が使われている。関東大震災以後東京都内に雨後の筍のように現れた看板建築があるが、それは装飾付き商店建築を指す言葉。看板建築の看板とは、実際に屋号や広告等5. 板金という職業の発生
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